被災者支援サークルあくしゅ@福岡教育大学

東日本大震災を機に、被災者支援のために福岡教育大学内に
立ち上げた「被災者支援サークルあくしゅ」のブログ。
これまでの活動報告や支援物資の募集などを更新します。
少しずつでよいので、まずはご協力どうぞよろしくお願いします。
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# リトル・ヒーロー
本日(すでに日付は変わったが)、西條剛央著『人を助けるすんごい仕組み―ボランティア経験のない僕が、日本最大級の支援組織をどうつくったのか―』が届いた。すぐにでも読みたい気持ちを抑え、明日(すでに今日)締め切りとなっている成績登録の作業をやっている。間に合うか。しかし、もうこれ以上仕事をおくらせることはできない。ここはぐっとこらえて粛々と業務をこなすのみ。(といいつつ、寝る前4AM〜しばらく読んでしまった・・・)。

ツイッターでTLをのぞいていると、支援ボランティアをめぐるいろんな考えが飛び交っている。一生懸命やっている人が一生懸命やっている人を一生懸命やっているがゆえに批判する。それは生じた問題を目の当たりにしたからこそふつふつとわいてくる感情であり、褒め合ったり、慰め合うだけの生ぬるい支援活動に対し、敢えて打つ「愛の鞭」なのかもしれない。事実、被災者の方々が批判に賛同されるときには、そういう手厳しい批判が問題をついているということでもあるんだろう。

個人的には少しむなしくなってしまうんだけど、恐らく「むなしくなる」と言えるのは、それだけ十分に僕(ら)がコミットしていないからだ、ということなのだろう。命かけて取り組んでいる方々は、ご本人を含め誰が何といおうと、やはり「偉い」と思うし、僕(ら)にはそういう方々が「敢えて」発する手厳しい声を全身で受け止めるしかないのだろう。

僕の中にすっきりしない何かが、のどに引っかかった小骨のごとく引っ掛かり、きりきりとした痛みを与えているのを感じるが、僕らは僕らなりにどうすべきか、自分の問題として受け取るところから始めないといけない。

頭は整理できていないが、のどの小骨が取れればいいなと思いつつ、赴くままに書いてみる。

ふんばろう東日本支援プロジェクトに対するクレームをこれまで何度も目にしたことがある。そのクレームに真実も含まれるのだろう。しかし、社会システムとは私たちが思うよりも、そんなに単純ではない。それは人が作り上げるものであり、システム自体も人の行為によって成立しているのであって、いったん作ったら後はメンテしておけばいいというものではない。根本的に社会システムは機械のシステムとは異なるのである。

しかもシステムをになう人々が変わらないつもりでも、環境が変わればその変化がシステムを支える行為の意味にも微妙な差異をもたらし、システムそのものが変化していくことがある。目を閉じて足踏みしているといつの間にか少しずつ動いているように、いくら同じことを粛々とやっていようとも、いつの間にかずれて行くのが社会システムなのである。

西條さんはふんばろうの代表だ。でもすべてを総括しきれるわけではない。それでいて全責任を負っている。責任とは単に生じるものではなく、引き受けるものだ。そして、西條さんは末端で何が起こっているかすべてを把握できなくとも、全責任を自らの手に引き受けて行動している。システムに完璧はない。だからこそ状況が変わればそれに合わせて変えて行くのがシステムである。何か問題が起これば変えて行く。構造上齟齬は出るものであり、それが改善しなければならないと分かる兆候となり、システムは常に遅れて現状に追いつこうとする。

この絶対的な時間的遅れの中で、多くの人たちが傷つき、時に失望することになる。この「現実」は否定できない。そして「壁」でなく「卵」の方に足場を置いたとき、システムの時間的遅れが批判の対象として立ち上がってしまうことがある。構造上避けられない時間的遅れと否定できない人々の痛み。この狭間でときに引き裂かれ、時に押しつぶされそうになる存在、それが上に立つ長だ。

一学者であった西條さんと学術学会で実際に出会う前に、僕は彼がアクションを起こし、みうらさんと出会い、システムを構築し、プロジェクトを広げていくその過程を遠くから見てきた(近くでなくても申し訳ないのだが)。彼は文字通りリミッターをはずしたのであり、どんな批判が出てもそのために支援をおくらせることはできないと考え、敢えて「ネタ」となる覚悟をし、前に出たのだ。多くの人たちが立ち往生しているときに、一歩出る勇気。簡単に見えるが難しい。西條さんは突き動かされるように前に出たのだ。覚悟を決めて。それは彼にとって必然でもあり、しかし、自ら成した選択でもあった。

僕のような生ぬるい活動しかできていない人間は、必死でやってきた方々が命かけてはなった言動にコメントするような立場にない。いろんな意見もあっていいと思う。中途半端な支援が逆に被災者の方々を傷つける、失望させる、状況を混乱させるという逆説があることも(頭では)分かっている。

それでいて、小さな人たちが持っている小さな種火を消してもいけないと僕は思う。

疾走する方々が残していく風は種火に酸素を送り込み、炎へと燃えあがらせることがあっても、それを吹き消すことになってはいけないと思う。マスは無能な群衆でもある。でも、多様性を抱えるマスはあらゆる運動の源であり、サイレントマジョリティや十分「必死」ではない僕らを無価値であるかのように一般化すつのは、叱咤激励になりえたとしても、その結果出てくるのは一部のエリートでしかない。必死こいている人が10人でてくることも必要だが、同時にそれ以外の1万人が少しずつでも動いていかなければ山は動かない。優れたエリートは山を動かし、優れた山は敏感にほんもののエリートの発するメッセージに反応する。

エリートを鼓舞することがあっても、マスを侮ることなかれ。

僕は一単科大学で支援のタクトを振っている一指揮者にすぎない。エリートでは決してないし、振っているタクトに魂は宿っていない。こたつPやストーブPに参加したり、物資を送っても、よそから見たら自己満足にしか見えないかもしれない。おまえは必死じゃないってお叱りを受けるかもしれない。

それでもやれることを粛々とやるしかないんだよ、僕は。みみっちいことだと思われたとしても、手を止めない努力をしなきゃいけないって思うんだよ。一人が1万のおにぎりを送ろうと、1万人がそれぞれ一個のおにぎりを送ろうと、1万のおにぎりには変わりない。僕はその一人にはなれないけど、1万人分の1、もしくは1万分の他10人を集めようとする人にはなりたいと思っている。

派手じゃないけど、そういう努力って必要じゃないかな。

僕は不満を言ってるんじゃない。ただ自己弁護をしているだかなのかもしれない。ただ分かるのは、僕は夢見てるってこと。お互いを批判し合っても、それは相手をつぶすためのものではなく、やり方は異なっていても、同じ方向を向いて一人でも多くの人たちが汗を流して、やれることをやっている姿を。

僕は西條さんにはなれない。覚悟もないスモールスケールの人間だ。でも、僕の周りにいる人たちの意識を少しだけでも変えて、思いはあるけど行動する機会がなかったと思う人たちの心遣いを集め、それを被災地に届ける郵便屋さんのような存在にはなりたいと思っている。

村の郵便屋さんでいい。

淡い夢だと言われてもいい。

向いている方向は同じだと信じて、ただやれることをやるのみ。

この雑文をたまたま目にしてくださった方々のほとんどは、正義の味方じゃないんじゃないかな。僕には高いところから正論を振りかざす勇気も度胸もないけれど、マスの中からささやき続けたい。

「みんなも小さなヒーローにはなれるはずだよ」、って。
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